2017/05/06

■戦後最悪の危機


我々は現在第二次世界大戦後最悪の事態に陥っている。我が国に最も危険な状況は言わずもがな北朝鮮の正恩共産党委員長が引き起こしているものである。

彼は核の力、長距離ミサイルなどをもって、アメリカに対抗できると絶えず脅しているが、仮に彼が引き金を引く許可を与えたら、それが世界の滅亡につながることを彼は十分認識しているのであろうか。恐らくその段階は北朝鮮の滅亡であり、そういう状況に陥るならば、死なば諸共、全世界が滅亡してもいいと考えているのであろう。

彼の祖父、父親がそう考えていたことはかつての映像で示されている。そこまで考えているのだったら、それはもうメチャクチャなやけくその発想以外の何ものものでもない。彼が核や長距離弾道弾について語るとき、彼の表情は子供が玩具を弄んでいる時の表情になる。

だが、金正恩について一方的に語るだけで、問題の本質は明らかになるだろうか。
対するアメリカのトランプ大統領の姿勢も亦、大国の大統領らしからぬ軽々しいものである。大統領就任100日のお祝いどころでなく、反トランプ陣営は全米で反対運動を繰り広げている。「トランプはアメリカの恥だ」という声も少なくない。世界の大国アメリカ大統領がその知性を疑われることほど悲しいことはない。

翻って全世界のリーダーの在り方を考えるとき、フィリピンのドゥテルテ大統領を含め、現在の世界の指導者の言動がその地位に相応しいかどうか、疑問を抱かせる人物がこれほど多いときはなかったように思える。1900年代ヒトラーをはじめムッソリーニなどが台頭した時期に、アメリカの州知事にもファシストばりの発言をする人物がいたことが想起される。そういう現象は時に世界各地で同時的に現れるものらしい。そう考えると冒頭に述べた危機は浅からぬ現実性を持っているやに思われる。

残念なことだが、わが国の安部首相は一昨日の発言で、憲法を変え自衛隊を国防軍にすると述べ、同じ自民党の中からそういう議論は交わされていないと反論を招いている。世界の危険な状況は何も北朝鮮が我が国に核弾頭を打ち込む脅威だけでなく、我が国の最高責任者にもみられる危険性でもあるのだ。この事実を我々はしかと認識する必要がある。 (野村三郎)

写真:フランツ・ヨーゼフ1世像(1830-1916)ブルクガルテン・ウィーン


2015/07/20

■緊急の訴え   野村三郎


僕は1933年ヒトラー政権成立の年に生まれました。現在82歳で後2桁の年数を生きる可能性は殆どありません。
日本敗戦の時、小学6年生でした。
1945年6月17日の鹿児島大空襲の時、1メートル先に焼夷弾が落ち、間にあった南天の木のお蔭で命拾いをしました。隣の地方気象台へ駆け込み、そこから自分の家が焼けるのを見ておりました。

父の会社は焼失し、母は専業主婦から内職主婦になり子供を育ててくれました。母の弟(僕の叔父)は戦病死し、長兄は学徒動員で生き埋めになりましたが、かろうじて命拾いをしました。次兄は戦後肺結核になりました。
僕は大学卒業の折ひどく具合が悪く、診断の結果「栄養失調」でした。大学院の入学金は恩師栗田直躬先生に出していただきました。(勿論アルバイトで急ぎお返し申し上げました。)

音楽に熱中している野村三郎のもう一つの顔は哲学と社会学です。
僕の精神史の出発点はナチの強制収容所から奇跡的に帰還したヴィクトール・エミール・フランクルの「夜と霧」です。
アウシュヴィッツには2度行きました。これまでずっとヒトラーとファッシズムの本を読み漁りました。次のターゲットは「スターリンと全体主義国家」です。

さて本題です。
安倍政権は「安保関連法案」10本を一括閣内決議し、現在この法案は参議院に送られています。
憲法学者の90%がこれは憲法違反だと判断しています。この中に「集団的自衛権」なるものが含まれています。
同盟国アメリカが戦争を起こしたら、実質立派な軍隊である自衛隊は世界中どこへでも派遣されます。
今もし1950年の朝鮮戦争のような事態が発生すると、日本に核弾頭を積んだ長距離ミサイルが飛んでくる可能性があります。

安倍首相は内閣法制局長官、日本銀行総裁、NHK会長に親しい人物を送りこみました。
こうして憲法改悪の外堀は埋められつつあります。
僕の命はもう長くありませんから構いませんが、皆さんの家族、兄弟姉妹、子供、孫の運命はどうなるでしょう。
戦後70年間戦争しなかったわが国の平和は破られかねません。
9月末の国会終了後、我々が極めて危険な政治的状況に陥る可能性について、充分認識されるよう訴える次第です。

ウィーンにて  2015.7.17


2015/07/05

■モーツァルト印♪


≪モーツァルト印≫

モーツァルトの作品の演奏や楽譜、レコード・CDの売り上げは年間一体どれほどの額になるのだろうか。それは計算不可能だろうが、恐らく天文学的金額に上がることだろう。

それにモーツァルト・グッズなるものもある。モーツァルトチョコに始まり、ワイン、時計、カレンダー、およそ考えられる限りモーツァルトの名前を冠した商品がウィーンとザルツブルクに氾濫している。

そのほんの一部分でもいいから生前のモーツァルトにあげられたらなあと時々思う。それはハイドン、ベートーヴェン、シューベルトも同じである。しかし、と思う。これほど商業化された“モーツァルト”という現象は、いったいなんなのだと。

こういう商業化は、第二次世界大戦直後は、想像もつかなかったことであった。人々は今日の食べ物をどうしようかということで頭が一杯であった。第二次世界大戦後、廃墟と化したウィーンで人々は衣食住のいずれにも困っていた。それはウィーン・フィルのメンバートとて例外ではなかった。

ヒューブナー夫人は、「私が国立歌劇場で歌い始めた1946年の初任給が80シリングだったの。ところが闇市でバターは1キロ80シリングしたのよ。つまりひと月の給料では、バターは1キロしか買えなかったってわけ。」と言った。

ところがそこに救い主が現れたのである。ヒューブナー(ウィーン・フィル会長1972-1978)が「国立歌劇場にケア・パケットというのがあってね。これには当時手に入らないものが入っているものだった。又、録音のお礼を現物で支給してくれたりした。こちはスイスにある商社を通じて不足している物を送ってくれた。食べ物、コーヒーなどはとても助かった。最高だったのは、背広の生地を送ってくれたことだった。」と言った。

交通は破壊され、彼らは演奏会会場まで歩いていくこともしばしばだった。こういう状況の中でウィーン・フィルは1945年4月27日、コンツェルトハウスで演奏会を再開したのだった。演奏の最中に停電した。それでも彼らは最後まで弾き続けた。もちろん、室内楽の演奏も再開された。
ウィーンの冬は寒い。彼らはオーバーを着て演奏したという。

ウィーンで室内楽を聴くとすれば、ムジークフェラインのブラームスザールかコンツェルトハウスのモーツァルトザール、或は、昔の貴族の館の一室、教会付属の建物の一室ということになろう。

勿論、ムジークフェラインの大ホールという記録もあるが、聴衆は50人の事もあれば、多くてせいぜい500ないし600人である。収入としてはそう多くを期待できるものではなかった。聴衆はこの窮乏の時にもかかわらず会場を満たしたという。
いや物質的不足があればこそ、かえって精神的に満たされたかったからに違いない。

それにしてもこの1950年代の弦楽四重奏団はなんと自然で心に沁みるものをもっていることだろう。それは演奏家も聴衆も音楽が本質的に持っている魂の癒しをお互いに求めていたからではなかろうか。
私はこの演奏をした音楽家たちと話をしているといつも爽やかな気分になるものだった。それは彼らが商業主義と縁遠かったからではなかったろうか。

“モーツァルト印”の商業主義がはびこるのは、世の中が豊かになってからである。
例えばカラヤンである。彼は自ら自分を“カラヤン印”の商品にした。
私は彼の音楽の傑出した才能を認めるのに吝かでない。しかし現代の演奏というものを正に現代流に商業化したのは彼であった。そしてその後に小カラヤンが続々と続いているのである。
しかし、その中で商業主義にどっぷりと漬かっていない魂のこもった音楽が仮にあるとするなら、そのひとつにこのCDを入れたいと思う。  [野村三郎]

*ウエストミンスター復刻版CDライナーノート ≪ウエストミンスター室内楽~16≫より

◆ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団(1934-1967)
Wiener Konzerthaus Quartett
Anton Kamper   第1ヴァイオリン
Karl Maria Titze 第2ヴァイオリン
Erich Weis ヴィオラ
Franz Kvarda チェロ


2013/12/26

■日本とヨーロッパ ~②


歴史教育 ~その2

Volksgarten Wien

ウィーンに仕事の都合で住むことになって、子供たちを日本人学校に通わせた。ところが高校がない。そこでインターナショナルの高校に通わせた。
ある日学校の話題になって、歴史をどう教えているかという話題になった。驚いたことに歴史は現代から出発して、過去へと進んでいくのだという。これは日本とまるで反対ではないか。しかも時々生徒たちは2組に分かれて討論するのだという。おりしも旧ユーゴが紛争中だったので、客観的に討論するより、それぞれの出自をもっているから議論は白熱するのだという。

そんな調子では古代まで行きそうにないな、と思った。案の定、古代はおろか中世まで行くかどうかさえおぼつかない様子である。逆にわが国の歴史教育を考えると古代から始まって、現代まで到達することはほとんどない。逆さまのようで、事情は基本的には同じで、古代から下ってくるか、現代から遡っていくかの違いである。

では何が問題なのだろうか。我々は歴史というと人類の辿った道を知ることと考える。それを学ぶのが歴史だ。そう考えているのだ。ところがヨーロッパでは歴史から何を学ぶか、ということが重要なのである。有名なドイツのワイツゼッカー大統領は、かの有名な演説の中で「歴史に学ばないものは、現代に盲目になる。」といった。ここがポイントなのである。

我々は学ぶことは知識を吸収することだと考える。これも正しい。しかし、同時に知識の吸収だけでなく、その知識から何を学ぶか、という発想をしているであろうか。あるいは学ぶということは、何のために行うのか、と考えているだろうか。学ぶことで知識が増えることは結構なことである。しかし、その知識から何を引き出すのか、という視点を真剣に考えたことがあるだろうか。もし単に学ぶことが、単なる知識の集積に過ぎないとするならば、それはあまりに空しくはないだろうか。

我々は学ぶことに加えて、その知識について考えてみることが必要ではないか。
さらに可能ならそれらを体系づけられたら、さらに素晴らしいであろう。しかし、同時に学んだものの意味を考えることができたら、その知識は単なる知識に止まらず、生きていく上での重要な指針となるであろう。このことが大事なのである。

ことに歴史は現代がどこへ向かっていくのか、どうあるべきか考えるさせてくれる。そこに単なる知識に止めず、体系化し、その中から歴史の教えをくみ出す意味があるのである。それが二度の世界大戦を引き起こし、20世紀を悲惨な歴史にしてしてしまったドイツの大統領の苦悩の末の結論があった筈なのである。

話を最初に戻すと、わが国の軍国主義が引き起こしたアジアでの惨禍は、何によるものであるのか、歴史的にどういう意味をもっているのか、ということを考えないで、起こした事件の加害と被害のみについて言い合っている間は、根本的な問題の本質に迫れないであろう。第二次世界大戦後、ほぼ世界は他国を侵略し、自国の領土としたり、植民地にすることは「帝国主義」としてお互いに認識する方向に向かってきた。 これはかの悲惨な20世紀の惨禍の代償として学ぶべき、基本的認識といえよう。

世界全体を巻き込む大きな戦争は今後起き難くなったとはいえ、油断してはならない。更に21世紀の幕開けはテロという忌まわしい形の殺し合いで始まった。このような事態の根本的原因についても我々は考えねばなるまい。知識を沢山詰め込むことは結構なことである。しかし、それを生かさないこと、その意味を考えないことは、知識の飾り物を持つだけのペダンチックな物知りの域を出ないのだ。歴史教育の持つ意味は歴史から学ぶことである。そのために現代から学び始めることは非常に意味のあることだと思う。わが国でも何のために歴史を学ぶのか、深く再考する必要があるのではなかろうか。


2013/12/19

■日本とヨーロッパ ~②


歴史教育 ~その1

中国や韓国からしきりと日本の政治家の歴史認識がなっていないと批判されている。残念なことだ。ヨーロッパから見るとき日本の外交政策の下手なことは歯噛みしたいくらいに見える。それは恐らくドイツが戦後ヨーロッパの中で生き残るために必死で数々の手を打ってきた歴史を見ているからであろう。

ドイツはヒトラーをはじめとするナチスの過酷なユダヤ人絶滅政策のつけを払わされてきたから、その代価としてわが国では想像もつかない対策を講じてきた。いや講じざるを得なかったのだ。600万人ものユダヤ人を殺し、最終的にはユダヤ人をすべて抹殺するという政策を取ってきたのだから、ユダヤ人ならずとも強制収容所での大量のガス殺人とその思想には身の毛のよだつ思いをしてきたのであろう。

それらは想像もつかないほどの恐怖を世界中にばらまいてきた。そこで毎週必ずと言っていいほど1回はナチスの過去を批判し、告発するドキュメント、あるいは映画などがテレビの画面で流される。まるでドイツから発せられるそれらの映像はドイツという国と全く異なる国が行ってきた行為に見えるくらい厳しいものである。これが同じドイツという国のことであり、同じ民族のことかと思えるくらい冷徹に批判しているのである。

もしわが国で同様に軍国主義日本の過去の行為をドイツ同様に暴き立てたら、右翼は勿論のこと、一般の人々まで不愉快な思いをし、反発するのではなかろうか。冷静な歴史観で過去の軍国主義の行為を歴史の中で描写することすら右翼に自虐史観と罵られるのが日本の現状なのだから。

中国や韓国がわが国に求めているのはそうしたドイツが行っているナチス時代のドイツと現在のドイツの絶縁した行き方であろう。仮にそうしたとしても彼らは感情的にまだまだ100年単位でわが国に対する批判と嫌悪の情を拭い去ることはなかろうと思われる。

ではそういうことに対して頬かむりして居直ればいいのかというと、それは一層悪い関係を生むだけであろう。では卑屈にすみませんでした、と言えばいいのかというのでもあるまい。そういうたぐいの姿勢ではなく、率直に歴史を見るという姿勢だけが必要なのである。それに対して内外から色々と批判が出るであろう。しかしそれにめげてはいけないのだ。あの時代はそういういう認識で日本の軍部にわが国は引きずり回されたが、現在の日本はそういうことは決して起こさない民主主義の根付いた国に生まれ変わっているのです、と何回でも回答するよりほかに道はないのだ。 だが、それで問題は解決するのだろうか。そうではあるまい。そのための方法はいくつかあるはずだ。それを考えてみよう。(つづく)


2013/11/22

■日本とヨーロッパ ~①


國のかたち その2

近代史におけるヨーロッパの植民地政策からも、ヨーロッパから最も遠いがために逃れたと言っていいであろう。歴史家の石母田正は植民地の統治の困難など、植民地化された國の反乱や犠牲の上に、わが国の植民地化は逃れられた、その点でアジア諸国の植民地のお陰を被っていることを考えるべきではないか、と説いた。この説は私のヨーロッパ観に大きな影響を与えた。

遣隋使、遣唐使の諸先人たちは、その荒々しい海を越えて、貿易や、学問を求めて中国に渡った。阿倍野仲麿のようについに祖国に帰ることが出来なかった文化人もいる。宗教、文化を中国から受け継いだ、わが国の彼の国に対する尊敬と憧れは、明治維新まで続いた。この尊敬の念、憧れの念は、明治の開化思想でいつの間にか、欧米への尊敬、憧れにすり替わったようである。しかも日清戦争、日露戦争などを通して、わが国は驕り高ぶり、近隣諸国を見下す風習すら生み出した。

第二次世界大戦で木っ端微塵にこの思い上がりを打ち砕かれたわが国の人々の中には、戦後欧米に対する卑屈さを無意識に持ってしまった人々もいる。そういうことではないのだ。私は留学したほぼ半世紀前に、ヨーロッパに盆栽が定着しているのに驚いた。高村光太郎が、その詩の中で、わが国の文化は「根付」ぐらいに小さいと嘆いたが、そうではない。ヨーロッパ人は大きなものを好む。我々は小さなもの、微妙なものの中にも美を感じ取り、発見する能力を持っている。

今や寿司は愚か、先日見たドラマの中では「おにぎり」を作るヨーロッパの家庭の風景を発見して、私は唖然とした。21世紀は國の垣根を想像以上に低くしつつある。われわれが先輩から引き継いだ、海の彼方の優れた文化に対する尊敬と憧れは持ちつつも、わが国独特の文化と価値観を失ってはいけない。この「優れた文化に対する尊敬と憧れ」は、海というお堀に守られてきたわが国の地勢の賜物でもある。謙虚に他人に対する崇敬の念を持つわが国の伝統は、高く評価されている。同時に自らの伝統の素晴らしさも、外国から見ると驚異の目で見られてもいるのだ、ということも決して忘れてはならないのだ。


2013/11/17

■日本とヨーロッパ ~①


■國のかたち その1

私は長いことローマという国のかたちが馴染めなかった。のみこめなかったのだ。
何故ならば、ローマは国の中に海を抱え込んでいたからである。それと対照的にわが国は海に囲まれている。私の頭の中に、國というものは一つのまとまりであり、それを取り囲む海か、何ものかがあるのが当然だ、という考えが染み込んでいたせいであろう。

ところがローマはまるでその概念と正反対に地中海を内部に抱だき、その周辺の地域からなる一大国家だったのである。これは何か違う、と私の思考は長いこと私に抵抗していたのであろう。ローマは何に囲まれているのだろう、と私の國のかたちの固定観念が、私に異議を申し立てていたのだ。 ヨーロッパに暮らし続けて23年になる。歴史好きの私だが、知っているつもりの歴史の形が、このやや長いヨーロッパ暮らしの中で、より深く理解できて来たのであろう。

例えばウィーンはハプスブルク家の中心だったのだが、スペインの南アメリカ征服はハプスブルクのスペインの仕業だったとか、皇帝軍のローマ略奪は何のことはないハプスブルク家のカール5世の軍隊と法王軍との戦いの結果だとか、何とも自分の歴史認識の浅さが分かってきたのである。

そこで再びローマ国家に目を転ずれば、この強大な國が地中海貿易で儲け、やがて次第に周辺国からの民族移動、侵略で蝕まれて行ったのだと認識するようになった。海を取り込んだ國はその後ビザンティン帝国も、オスマン帝国も、ローマのような広大な領域は持てなかった。

國のかたちというものは人類が都市国家を脱し、大きな勢力圏を形成するようになってから、常に戦いによって変化し続けて来たのである。だが、わが国は明治以降の侵略戦争で得た植民地を除けば、ほぼ1400年間、完全な統一体ではなくてもほぼ共通の言語を有し、文化的に同質なものを保持してきたのである。勿論、アイヌ民族の言語、文化もこの国の中にあった。こういう原型を維持し続けた國は、世界的に見て数少ないものである。
それはひとへに海に囲まれていたという地勢的理由による。蒙古の襲来もたまたま2度とも台風のお陰で防げた。この時期ヨーロッパ一帯はウラル山脈の東の民族に蹂躙されているのである。

フィンランドとは「フィン」の國、詰まりフン族の後裔であって、彼らは自らを「スオミ」(千の湖の国」と称しているのである、エストニアも又然りである。ハンガリーは「ハン」の国である。中学生の私は集めた切手に「マジャール」というのがあって、一体どこの国かと思っていたら、ハンガリーのことであった。彼らはマジャール民族なのである。だからハンガリーに行けば、「アッテイラ」というかつての侵略者の王の名を名乗っている人がいる。

つまりフィンランドもハンガリーも、元を正せばウラル山脈を越えて何千キロもの遠いヨーロッパ迄侵略した、モンゴル帝国の子孫たちが形成した国なのだ。だが、彼らはすぐ近くのわが国を海があるがために、侵略できなかったのだ。(つづく)


2013/10/05

■”オーパン・パッサージュ”の謎


ウィーンのオペラ座前の地下にあるオーパンパサージュの改装が終わり、とてもきれいになった。歩道に赤いライン、天井に緑とのラインが、光って見やすく引かれている。 これはカールスプラッツで交差する地下鉄U1、U2 U4それぞれの路線のシンボルカラーで、それらの地下鉄へ至る通路であること示している。

この地下の通りを支える柱もオペラ側のやや楕円形の広場は褐色の大理石模様で上品に覆われている。昔ここを私達は「金魚鉢」と呼んでいたが、今でもそう呼ぶ人はいるかしら。中央のガラスで囲われているパンのチェーン店“アンカー”のお店が金魚鉢に見えるから、そう呼んでいたのだろう。

完成記念のパンフレットを読んでいたら、このガラスの壁は、この地下の通りの透明性のために意図的にされたものだという。従ってオーパン・パッサージュにある店は全て中が見えるようになっている。

私は1970年留学のためウィーンに来た時、このの中央につのエスカレーターがある、便利で近代的な通路があることに驚いたものだ。なぜなら日本的発想で考えると地上を横断して向こう側に渡るか、さもなくば歩道橋が架けられているものだという、おかしな思い込みが私にはあったからである。

東京で言えば数寄屋橋の交差点の地下にゆったりとした空間があり、そこにカフェやしゃれた店と地下通路があるようなものである。日本の歩道橋的発想に囚われていた私は、一体何時これが作られたのか、不思議であった。

当時私は、ショッテントーアに本部のあるウィーン大学に通っていたので、ショッテンパッサージュも驚きの箇所であった。あそこからフォルクスオーパーへ行く、ヴェーリンガー・シュトラーセに向かうと、次の市電の停留所のところからベルクガッセが坂道になって下って行き、その途切れた所にフロイトの記念館がある。その途中の10番地にウィーン・フィルのファゴット奏者のハンツルさんの家があり、私はそこに下宿していた。そういうこともあり、ショッテンパッサージュも毎日のように通うところだった。

完成記念のパンフレットによるとウィーン国立歌劇場再建に合わせて、1955年これは作られたのだそうである。それですっかり納得がいった。 195511日のウィーン国立歌劇場再建は「音楽の戴冠式」と呼ばれ、戦後のカ国占領からかオーストリアが解放された記念のシンボリックな出来事だったのである。

再開初日はベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」が上演され、入場出来なかった万人の聴衆はオペラ座を取り囲んで、スピーカーから流れる「フィデリオ」を聴いたのだった。この歌劇場再建の記念行事はつのオペラ、つのバレエ、ベートーヴェンの「交響曲第九番」で飾られ、1月続いた。

この年はウィーン国立歌劇場再開の他に、戦後の占領からの独立、国連加盟実現という実にを挙げて祝うべき記念の年だったのである。だから工事もゆったりとするが、一旦オーパンパッサージュ建設が決まると、何時もに似合わないスピードでこの地下通路を国立歌劇場再開の前日195511日に仕上げたというわけである従ってこの地下通路は何もただ便利のためだけでなくウィーン、オーストリアの建築と解放のモニュメントでもあるのである。

このオーパン・パッサージュは建築家アドルフ・ホーホ(191092)が設計した。この地下通路が手本となりベラーリア・パッサージュ(マリアヒルファー通り入り口)とバベンベルガー・パッサージュ(ブルクガルテンそばのリング)及びショッテンパッサージュが1961年に作られ、アルベルティーナパッサージュが64年に作られた。そして1978年にはオーパンパッサージュはカールスプラッツで交差する地下鉄の連絡口にもなったのである。こうしてオーパンパッサージュとショッテンパッサージュは何十万人の行き来する通路になったのだ。

今回のオーパンパッサージュ改築のお陰で、今まで何故かくも便利なものがあの当時存在したのか、と不思議でたまらなかった理由が、それらの地下通路の改装で、その謎が解けたのだった。 それらは私にはウィーンは弱者にやさしい街のシンボルにも思えていたのだ。

今回の改築でオーパン・パッサージュにはエスカレーターの他に2ヵ所にエレーターも設えられ、乳母車や老人、足の不自由な人も容易に上り下り出来るよう、更に便利になった。 歩道橋で手軽にます日本はその点でもまだまだ社会的発想に不備がある事を今回再認識したのだった。


2013/09/21

■マララちゃん


パキスタンの少女マララ・ユサフザイちゃんが、アルカイダのテロ集団に襲われ、頭部を銃撃されたのは15才の時だった。彼女が「女性にも教育を」と訴え続けたのが、イスラム過激派のアルカイダに面白くなかったのだ。彼女は脅迫を受けてもコンピュータを駆使して自分の意見を述べ続けた。

そこで、学校の通学バスの中で襲われたのだ。幸いイギリスの病院で手当を受け、命を取り留めた。彼女の16才の誕生日の7月12日ニューヨーク国連本部に招かれ演説をした。国連はこの日、同世代の青年たち500人を世界各地から招いた。

私は可憐な少女が臆せず、堂々と自分の考えを述べる姿を偶然テレビで見た。彼女は準備した原稿をほとんど見ることなく、聴衆に向かってよどみなく意見を述べた。こういう時の癖らしく、時々熱してくると右手を上げ、指を一本立てて強調するのだった。私は彼女の話を聞きながら、涙が出るのを禁じ得なかった。
「一本のペン、一冊のノートでいいのです。子どもたちに与えて女性にも教育を受けさせるべきです。」そのくだりが、この日の彼女の話の山場だった。

未だ国が不安定なアフガニスタンと国境を接し、その影響を絶えず受けているパキスタンである。ビン・ラーディンが隠れ家を突き止められ、殺されたのもパキスタン北部であった。パキスタンも政情不安定で貧しい。こうした厳しい環境の中では極端なテロに走る過激派が出やすい。ウィーンにいると、中近東、アフリカのニュースがない日は考えられない。そこでこういう出来事は対岸の火事として、傍観する気になれないのである。

インド独立の父ガンジー、南アフリカの人種差別と戦い続けたマンデラたちは、迫害に屈せず、言論で戦い続けた。マララちゃんの戦いも暴力に向かっての言論の戦いである。厳しい環境だからこそ、こうした光る存在が胸を打つ。マララちゃんにアルカイダは依然として脅迫を続けている。彼女は立派な教育を受け続け、世に出たら必ずや大きな存在になるであろう。

翻ってわが国の青年たちにそういう志を持ったものがいないだろうか。いや、必ずいる。わが国は恵まれており、平和だから、優れた素質を持つ青年たちは、学問の世界で世界的業績を上げたり、文化で世界に注目されたりしているのだ。ただ、明治維新の時のように国家大変革の時と違うから、ラマラちゃんのような方向で、その存在が知られたりしないだけのことである。
才能を持つもの、志を持つものは世界いずれの地域にもいる。願わくば、マララちゃんが安全で、己の主張を通し、夢と希望を実現できる日が来ることを祈るばかりである。


2013/08/15

■甲斐 栄次郎写真集~ 「ライカで綴る古都ウィーン」  


バリトン歌手の甲斐栄次郎さんがウィーン国立歌劇場での10年の活躍を後に帰国した。「子供の教育を考えましてね」というのがその理由であった。ウィーン国立歌劇場には惜しいことだが、甲斐さんならきっと日本での活躍の場は多いだろうし、その分本場で吸収したものを広め、オペラファンを楽しませるであろう。日本のオペラのために彼の日本での活躍が貢献するに違いない。

彼はこの10年の間に41の役を演じた。子供のためのオペラを除いて、彼の出演した役は全部観たと思う。その中で特に印象に残っているのは”ラ・ボエーム”のマルチェロとショナールの二役。それに”シモン・ボッカネグラ”のパオロだったように思う。

”ラ・ボエーム”は貧乏な芸術家たちが、何時の日か自分の夢を花咲かせようと、屋根裏部屋で共同生活を送っている。その仲間たちに甲斐さんは良く溶け込んでいた。特に絵描きのマルチェロの役は主役の詩人ロドルフォとの絡みも多く重要な役である。
一方”シモン・ボッカネグラ”のパオロは、高貴な精神に満ちたシモンを最初は担ぎ、最後は個人的恨みで彼を毒殺するというユニークな役で、オペラの鍵をにぎる重要な役である。この役は初めから終わりまで目立つ。しかもドミンゴがバリトン役のシモンを歌って大きな話題になった公演である。この世界的大歌手を相手に、このオペラで大活躍するのがパオロの役だ。彼はこの役を見事に演じた。この10年で甲斐さんは大きく飛躍し、大変な蓄積をされたと思う。

ところが、彼はもうひとつ大切な土産を残してくれたのである。彼に写真の趣味があるとはついぞ知らず、それも立派なプロの腕前のレベルなのだ。彼はウィーン在住中にモノクロの写真集をモノしていたのである。 この本を最初見た時、彼の誠実な人柄そのままの本だと思った。写真も良ければ、それに添えられた短いコメントも気が効いていて、最後に添えられている文章に彼の写真に対する情熱と、彼がウィーンで何を得て何を感じ、何を吸収したかよく分かった。

彼とは彼のウィーン国立歌劇場での仕事が終わった後、ひょっこり街で出会った。暫くの立ち話で、彼の日本での活躍を祈って別れた。すると数日して彼の写真集「ライカで綴る古都ウィーンー音楽が聞こえるモノクロームの風景ー」が届いた。大変嬉しく、早速、一読ならず読み返した。
ウィーンに在住し帰国するにあたって、文集とか、本とか記念を残す人はいなくはない。その中で、甲斐さんの写真集「ライカで撮った古都ウィーンー音楽が聞こえるモノクロームの風景ー」は出色の出来である。出来がいいというだけではない。心がこもっているのだ。 是非読んでいただきたい著作である。

♪ ♪ ♪

オペラ座の建物を見た時
大きな船のようだなと思ったことがある

過去から受け継がれてきた
数々のオペラ作品

僕は船員のひとりとして歌う
進路は未来だ

―甲斐 栄次郎 「ライカで撮った古都ウィーン」より


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