2011/01/30

舞踏会の季節


(c) Wiener Staatsoper GmbH / Axel Zeininger

 ウィーンはヨーロッパのいずれの国とも同じく冬寒く、どんよりした日々が続く。日本のように冬も晴れた日が多いのは世界的に見て、稀な地域だという。だから冬のウィーン人の憂さ晴らしは到底日本人には想像がつくまい。このどんよりして寒い日々に何かパッとしたことをせずにおれようか。

 かくしてこの季節ウィーン人は踊り狂う。ウィーン人の踊り好きには年季が入っていて、何も最も華やかなウィーン国立歌劇場の舞踏会にかぎったものではない。宮廷では貴族たちが、地方では農民たちがそれぞれに自分たちの流儀で踊ってきた古い歴史がある。記録を辿ればウィーン人の存在とともにあったとさえいえるだろう。

 しかもハプスブルク帝国は12の民族を抱え、ヨーロッパ最大の版図を持っていた。それらの各地から様々な踊りがウィーンに流入してきたのだ。それはウィーン料理の出自が様々な地域に出自を持つのと同様である。

 さてこういう踊り好きたちに拍車をかけたのはナポレオンとの戦争が終わった1814年のウィーン会議以降である。メッテルニッヒの反動体制は人々が政治に関心を持つより、踊り狂っていてくれたほうが、好都合だったのだ。田舎のレントラーという踊りは、今のウインナ・ワルツに変貌し、お互いに身を寄せて踊った。「下品だ」と貴族は言いつつ自分たちも当時大流行した巨大なダンスホールに紛れ込んで一緒に踊ったのだ。7区のアポロ座をはじめ市内(旧市街)を取り巻く各所に楽団を抱えたホールが続出した。最大のものは15000人収容できたというから、あきれるほどのブームだったのだ。

 その中心にヨハン・シュトラウス親子の楽隊があった。かくしてウィーン宮廷歌劇場にオペラ舞踏会が開かれることとなる。例年1月1日宮廷で開かれていた舞踏会は貴族がいなくなっても開かれているし、1月はウィーン・フィルハーモニー舞踏会が、今年はウィーン国立歌劇場舞踏会は3月3日に開かれる。暮れから春までこうした格式高い舞踏会以外にお菓子屋さん、法律家、警官などあらゆる階層の舞踏会がおおよそ300~400回もある。

 こうして舞踏会が伝統になると洗練されてきて、まずはポルカの調べに乗って社交界の若き紳士淑女が一列になって登場する。田舎者も私等はその光景に度肝を抜かれたものだ。(40年も前だもの!)服もきちんとフロックを着ていかねばならないし、靴もエナメルのダンス用のがある。 舞踏会では夜9時から朝まで文字どうり踊り明かすのである。それもウィンナ・ワルツだけではない。あらゆる踊りを楽隊は奏でお客を踊らせるのだ。踊れない悔しさに「エルマイヤー」なる由緒高きダンス学校に通ったものだ。

 第二次世界大戦が終わるとウィーンではこの舞踏会が復活し、東西対立が解消したら旧東欧圏にも、果てはアメリカにもこのゆかしき(!?)しきたりは輸出された。だが私の不満は入場のときのポルカの音楽に乗って優雅に入ってくるデビュタントの美しい流れが、もう舞踏会でしか見られないことだ。オペラ「ボリス・ゴドゥノフ」「エフゲニー・オネーギン」「ルサルカ」にも美しいポルカの調べに乗って紳士淑女が登場する場面があるのだが、このごろの演出はそれを少しも生かしていない。

 てなわけでせめてテレビでウィーン国立歌劇場のデビュタントの優雅な入場でも眺めるとするか。


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