2011/05/02

人知を超えるもの


 マグニチュード9という未曾有の大災害が3月11日東北地方を襲った。津波の高さは高い所で32メートルにも及んだという。この地震は仙台沖、茨城沖、岩手沖と3つも連続して起きた。一方このため福島の原子力発電所が次々と破壊し、放射能漏れは深刻な影響をわが国だけでなく、近隣諸国にも影響を及ぼしつつある。自然の大災害が人為的災害に及んだのである。

 これは04年のスマトラ島沖の地震が始まりであった。その後太平洋を取り巻くプレート上の各地で、チリ地震とかニュージランドだとか激しい地震に見舞われた。わが国では九州の新燃岳の爆発がその兆候であった。若い頃郷里のこの山に登り、渓谷を歩いた美しい自然が4000メートルの噴煙を噴き上げたという。90パーセントの確率で起こると予測されていたというが、誰もがこの巨大なエネルギーの噴出は想定外だという。「想定外」というのは人知が自然に及ばないということの告白以外の何ものでもない。だとしたらわれわれは自然に対してもっと謙虚であらねばならない。にも拘らずこの近年の自然破壊は何だと言うのだろう。人類は傲慢になりすぎているのだ。

 かといって東北の人々が無為無策であったわけではない。高さ10メートルの防波堤を作ったところもあった。津波はそれを簡単に越えたかもしれないが、勢力をいくぶん弱め、到達を数分間遅らせたかもしれないのだ。こういう営為を馬鹿にしてはいけない。自然の方が強力だったのだ。私はしばしば地球というもろい卵の殻の上で生きているのではないかと思うことがある。卵を扱うようにそっと注意深く生きていかねばならないのだ。自然災害はいつでも予測を超えると思うべきであろう。

 もっと問題なのは福島の原発である。これは明らかに人災である。安全策の予測を越えた災害という言い訳は許されない。広島、長崎を経験したわが国がチェルノブイリのような原子力発電による災害の危機にさらされるというのは一体どういうことか。私には企業の利益とわれわれの生活の利便性への追求がその基礎にあるように思えてならない。近代文明の進歩なるものが果たして進歩だったのか否か、私はきわめて懐疑的である。一度車を所有したら一生手放せなくなる。特に最近の便利さへの依存ははなはだしいし、売らんかなの衣装変えに忙しい車のモデルチェンジ、コンピュータ、携帯電話のめまぐるしい進歩(?)はおぞましいくらいである。

 私たちは梯子から一段下へ降りてみる必要はないか。便利というものが過度に過ぎるのではないか疑ってみる必要がある。ヘーゲルの「自己疎外」の現代的発現そのものの中でわれわれは暮らしているのではないか。つまり人類が生み出した発明品に自ら傷ついているのではないか疑ってみる必要がある。生活をもっとつましくし、テンポを緩めることがその鍵である。現代文明の悲劇が今度の災害の根底にあることを自覚するべきではないか。

 現代人のおごりの跳ね返りをもろに受けたのが今回の東北の被害者たちに他ならない。私は空襲で我が家が焼けるのを呆然と見ていた小学校6年生の日を思い出した。災害の苦しみは本人にしか分からない。全力を挙げて彼らを救援すると同時に、今後このような災害に会わないよう原発の存廃の問題を含め深く思いをいたすべき時である。


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