2012/02/15

『ボッセ追悼』ー②


2006年10月私の書斎にて

 私には手本とすべき人生の先達が二人いる。一人はボッセであり、もう一人は東洋哲学の栗田直躬先生である。この二人の存在感はどこか共通するところがあった。ボッセは口に出して人にあれこれ言う人ではなかたが、彼の生き方から学ぶことは山ほどあった。
                                                                                       ボッセは20世紀の悲惨の中を潜り抜けた人であった。彼の若い頃の恋は戦争で敗れた。彼は皮膚病で長く病院生活をし兵士に取られなかったが、ヒトラーが故郷近くのリンツに作った第三帝国交響楽団の団員になった。敗戦で命からがら故郷のライプツイヒに帰り、ワイマールで教え始める。
楽しい思い出も沢山ある。1979年友人6人で彼を訪ねたとき、ベルリンまでウルスラ夫人と迎えに来てくれた。ところが車がトラバント(?)と小型スコダ(?)ときているので、トランクと一緒に詰め込まれ、ベルリン~ライプツィッヒ間を走る間身を縮めていなくてはならなかった。それは大変だったが、楽しい思い出になった。
彼の家はライプツィッヒのやや郊外に近いメルヘンヴィーゼ(童話の草原)という地域にあった。そこらは童話等の夢に溢れた名前が道につけられており、彼の家は『魔王通り』に面した3階建てで庭には果物の木があった。この菜園で採れたものをウルスラさんは地下室で漬物にしたりして冬に備えていた。6人の友人と行った時もそうだったが、新ゲヴァントハウスホールの完成の時、彼の引退、75歳のお祝い、ウルスラさんの見舞い・・・もう正確には記憶していないが、この家に何度か泊めてもらった。
最初の訪問の折ワイマールに連れて行ってくれ、「ここでよく演奏するものだった」とワイマール音楽大学のキャンパスを指しながら話してくれたことがある。後で知ったのだがその時の教え子と結婚して、4人目の赤ちゃんが生まれる時、母子共々亡くなったのだった。「その日はともかくとして、他の日は一切ゲヴァントハウス・オーケストラを休んだことはなかった」と言った。  
                                                                                                            ヒトラー時代ユダヤ人の音楽は一切禁止されていた。「僕は若い時、カール・フレッシュの練習曲すら勉強できなかったんだ」とも言った。カール・フレッシュの練習曲といえばヴァイオリンを学ぶ者が避けて通れない練習曲ではないか。一事が万事、戦時中の日本と同じく、敵性音楽のユダヤ人の作品を聴くこと、弾く事はできなかったのである。
彼の希望はウルスラ夫人同伴で日本へ来ることであった。社会主義国では夫婦で国を出ることは亡命につながるので難しい問題であった。2人で相談して彼が文案を練り、それを日本は勿論、東独の関係機関に送り、二人を迎えた。ウルスラさんは「ベルリンへ行った事はあるけど、外国は初めて!」と言ってスーパーに山なす品物の多さに目を丸くしていた。彼女は買い物をするにもつましく、質素な人であった。彼女が作るドイツ料理に友人たちは舌鼓を打ったものだ。彼女はゲヴァントハウス・オケではトラで弾いていたが、日本に招いた頃はゲヴァント・オケの事務局にいた。夫人は特に、日本でも時に寄ってくる人をシュタージ(東独の秘密警察)の関係者ではないかと心配することすらあった。
                                                                                                            ボッセはウルスラ夫人を癌で失い、美智子さんと結婚し、日本へ永住する準備の際、階段から落ちた。その時のリハビリの真剣さは病院の模範であったという。医者は「ボッセ先生を見習いなさい」と他の患者に言うものだったという。又亡くなる前年だったろうか、夜中に暗闇の中ベッドの位置を間違え、床に倒れたこともあった。彼はコンサートマスターとして、四重奏団のリーダーとして演奏するとき前かがみになってヴァイオリンを弾いていたが、その姿勢がすっかり身について背中がやや前かがみになっていた。それを勘違いした評論家が50台の彼を「老ボッセ」と書いているのを読んで苦笑したことがある。それがこうした事故で一層酷くなった。だが一旦指揮台に登るとしゃんとするものだった。ヒトラー時代、社会主義時代を潜り抜けたボッセには秘めた揺るがぬ精神力があった。それが彼の持つオーラとなって周囲を包んでいたのであろう。表に出さないが、内面の厳しさを私はいつも感じていた。彼はこうした公私共に厳しい試練の人生を生きた人であった。
                                                                                                            もう一人の先達、栗田直躬先生はある時、 「教育は身を挺してやるものだ」と言われた。先生自身が「身を挺して」教えていらっしゃた。私は先生の講義は半期しか聞かなかったが、先生の家にはご迷惑をかまわずによくお邪魔した。先般亡くなったジョブズではないが、先生からよく「馬鹿になれ」といわれたものだ。それは修行時代は黙々と言われたことを勉強しなさいということでもあったろうし、心を空にして物事を受け入れてみなさいでもあったろうし、様々な意を含んでいる言葉であったろう。私はとても「馬鹿」になりきれなかったから、人より勉強も修行も遅れた。                                                                            ある時、先生の研究室を辞し、出ようとしたら、先生が「ちょっと待て」と、私のポケットにお札を突っ込み「これで卵を買いなさい。量り売りで買うんだよ」と言われたことがあった。呆然と私は研究室の前に立ち尽くしていた。あるとき新聞の見本版をアルバイトで池袋で配っていたら、先生はそれを目撃しておられたらしく、後で「この前はいじめられていたね」と言われて、教え子の中学の先生に「家庭教師の口はないかね」と目の前で電話され、家庭教師の仕事を探してくださったこともあった。大学院に入るとき入学金や授業料を立て替えていただいたこともある。1950~60年代の話である。先生は文学部長に推されたとき固辞された。私は栗田先生を思い出す度に胸が熱くなる。 私はこうした人生の先達にとても及ばないが、そういう先達を持つことの幸運を常に思うのである。


2012/02/13

『ボッセ追悼』ー①


2006年秋、ウィーン楽友協会グレザザール東京藝術大学室内交響楽団と

 ゲァハルト・ボッセが亡くなった。彼とはとても親しかったが、彼に対して常に尊敬の念を持っていた。
彼と初めて会ったのは1969年彼が熊本にゲヴァントハウス四重奏団を率いてやって来た時だった。 二度目は75年ゲヴァントハウス管弦楽団が鹿児島に来た時である。彼を家に招き話したが、彼は鹿児島の人口を聞いた。「50万です。」と言ったら「ここで講習会を開けないだろうか」と言った。私が鹿児島オペラ協会を作り、鹿児島交響楽団発足の仕事に加わり、水準の向上に悩んでいる話をしたからであ る。彼は「僕がここに来て指導するのはどうだろう。但し妻と一緒にだけどね。」と提案した。私は九州交響楽団のコンサートマスター岸辺百百雄さんにこのことを電話で話した。「野村さん、止めなさい。それは彼はヨーロッパの50万都市を考えているのですよ」と言った。それは私も分かっていた。資金をどうするか、外貨は当時日銀の許可を得なければならなかった。しかも社会主義国から夫婦を招くのは亡命の恐れありとして難しかった。だが私は彼の招聘に踏み切った。 

1980年第1回「霧島音楽祭」を開くのに先立って77,78年ボッセ夫妻を招き、演奏会、個人レッスンなどを行った。79年には友人達とライプツイッヒを訪問した。ボッセ夫妻を講習会の折霧島に連れて行った。涼しく風光明媚な霧島はすっかり彼の気に入って「ここで音楽祭をやらないか」とボッセが提案した。これは講習会より危険な賭けであったが80年ウィーン・フィルのチェリスト、スコチッチを入れて、霧島ユースホステルで第1回を開くことになる。
案の定これは大きな赤字となり、協力者は皆手を引く結果となった。当時どこにも音楽祭はなく、資金、運営など手探り状態であった。だが私は諦めなかった。翌年隣町の牧園町のキャッスルホテルでどうですか、という申し入れがあった。鹿児島市の文化係りをしていた人物が故郷の牧園町に帰っていたのである。こうして「キャッスル・ホテル」はその後長く音楽祭の中心になった。
やがて私は九州電力社長の紹介で経団連会長の平岩さんを訪ね、財団つくりに乗り出した。文化庁との交渉は私一人で行った。ジャパンアーツ会長の中藤氏に財団基金を半分して拠出してもらい、財団法人ジェスクを設立した。鹿児島県には助成金、ホール建設を歴代の知事に要請しつづけた。地元の銀行、デパート、マスコミなどの経営者達の理解を徐々に得て行った。だが、それで問題が解決したわけではなかった。私はこのために全てもてるもの、家、株券等売り払った。教育事業は数年で実りを生むものではないからである。 
                                                                                     ボッセはプロ、アマを問わず指揮の依頼があると、彼はスコアにヴァイオリンのボーイングを丁寧に書き込むものだった。それは団員たちが演奏上信頼できる指針を得ただけでなく、ドイツ音楽の伝統を知らず知らず身に着けるのに役立っていたのだ。ゲヴァントハウス管で30年以上コンサートマスター、ゲヴァントハウス四重奏団、ゲヴァントハウス・バッハオーケストラ指揮者を務めた彼のキャリアは、次第に日本全国に広まり、多くのオーケストラに客演指揮者として迎えられるようになった。その中に、新日本フィルハーモニ主席客演指揮者・ミュージックアドヴァイザー、神戸室内合奏団首席指揮者等などが含まれる。そのうちどこのオケに客演しても霧島のかつての受講生がいるまでになった。そういう実績は東京芸大を動かし、彼は東京芸大客員教授、同大学室内オーケストラ正指揮者に迎えられるまでになる。彼からドイツ音楽の伝統を学ぼうというのである。
ドイツ音楽の伝統といっても研究を怠らない彼の指揮は若々しく、テンポはやや速めで常に新鮮であった。彼がゲヴァントハウス・オケでコンサートマスターとして仕えていた指揮者コンヴィチュニーの解釈はもう今日通用しないことを十分心得ていたのだ。
                                                                                     音楽となるとどんな状況でもしゃきっとして立ち向かっていたボッセをいつの間にか大腸癌が蝕んでい。いくら高原でやや涼しいとはいえ霧島は日本の南端である。彼が霧島を辞めたいと漏らしたのは09年のことであった。その年夏は北海道で静養したが、体調は次第に悪くなる一方であった。私は霧島をすっかり辞めるのでなく、春秋など季節の良いときに行けばどうだろうと引き止めた。
                                                                                     ウルスラさんが亡くなったとき彼は「クリスマスを君のところで過ごしたいな」といってきた。私は91年からウィーンにある大学の研修所を運営していた。久しぶりに一緒にウィーンで仕事をしたときの楽しさは忘れられない。彼の再婚相手に美智子夫人を二人とも考えていたのは偶然ではなかろう。美智子さんは霧島音楽祭3回目から通訳を務め、その誠実な人柄を我々は深く信頼していたのだ。流石に彼女はボッセからプロポーズされたときは驚いたという。だが彼女なくして誰がボッセ晩年のわが国での偉大な音楽活動、教育活動を支えられたであろうか。
                                                                                     大阪フィルハーモニーは彼の90歳の誕生日を祝って彼の指揮でのコンサートを企画していた。だが12月の神戸室内合奏団の指揮が彼の最後のコンサートとなった。彼の病状の悪化を知り私は高槻市の彼の自宅を訪ねた。今にして思えばもう身動きもならない彼が、かすかに右手を振ったのは「さようなら」と言っていたのではなかったか。私は「90歳の誕生日を一緒に過ごせて嬉しいよ」としか言えなかった。
思えば彼との出会いは私の人生を大きく変えた。音楽祭運営の苦しみ、時に非難、中傷、などもあった。足も引っ張られた。しかし、多くの若い音楽学生の出会いの場所、学びの夏の霧島は今や鹿児島の文化財産となった。いや日本の文化財産ともなっている。そういう事業をボッセとともに成し遂げられたことは何ものにも変えられない私の精神的宝物である。このことを深くボッセに感謝しよう。さようらゲァハルト!


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