2012/03/06

『ボッセ追悼』ー③


『ボッセの遺言』
 ボッセが自分が死んだら墓は作らず霧島に散骨して欲しいと言い残したという。霧島のどこかの木の下に。これを聞いて「ああ、なんと彼は霧島を愛していたのだろう!」と思った。彼が霧島に眠るなら、霧島に行くたびに我々はボッセの思いに包まれるだろう。いやボッセに包まれるのだ。彼の包容力がいつも我々を包んでいたように。
                                                                                                              彼とウルスラ夫人と一緒に霧島に行ったのは1977年だった。その時彼が「ここで音楽祭を開かないか」といったのだった。そうして80年霧島ユースホステルでささやかな「霧島音楽祭」が始まったのだった。だが中身はとても濃かった。
最初の年の赤字で協力者が皆手を引いた時、全てを投げ打ってでもこの音楽祭を続けると私は決意した。その後私の窮状を察して彼は「もう止めようか」と言ったが、この決意は変わらなかった。
                                                                                                            ボッセはライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を定年で辞めた後、霧島に捧げ尽くした。それが実を結んで日本全体からヴァイオリニスト、指揮者として求められるようになった。新日本フィル客演正指揮者、東京芸大客員教授、同大学室内オーケストラ指揮者、神戸市室内オーケストラ監督等を中心に彼の声望と活動はわが国全体に広がった。しかし、ボッセと私の霧島を「室内楽を柱とし、鹿児島のために」という理念は変わらなかった。
                                                                                                            在団法人ジェスクの基金の半分を私が出し設立したが、困難は続き、不愉快なことも起こった。ボッセは「サブロウは難しいところで仕事を始めたものだな」と嘆いたが、彼は与えられた条件の中で黙々と仕事をする人間であった。戦後の東独で「先生、友人は亡命し、何もない中でパイオニアたらざるを得なかった。君もそうだな」とも言った。
                                                                                                            彼とウルスラ夫人共々指宿、桜島で泳いだ日々、霧島を散策した日々が思い出される。それを彼らはどんなに楽しんだことだろう。夫人を癌で亡くした後、期せずして彼と私が再婚相手に考えたのは現夫人美智子さんだった。彼女なしには晩年のボッセの活躍は考えられない。
                                                                                                            最初、なかなか鹿児島の参加者はなかったが、今や「霧島国際音楽祭」は鹿児島中、日本中に広がっている。主催者、講師、友の会の努力の賜物である。こうして所期の理念は実現しつつあるやに見える。だが、ボッセが懸念していたのは商業主義であった。ともあれボッセは霧島に永遠に帰ってこようとしている。国立公園である困難はあろう。だが、霧島に眠るというボッセの願いが実現するよう願って止まないものである。                                                          (南日本新聞2012年2月11日付け転載)
 
 


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