2013/05/27

■バンベルクー歴史というもの


バイロイト音楽祭に行った時、さして離れていないバンベルクを訪れたことがある。私はその時バンベルクについてはほとんどE・T・Aホフマンのことだけが唯一の知識といってもよかった。音楽家にして怪奇小説で知られるホフマンはバンベルクの劇場の指揮者でもあった。そういう彼の足跡に興味があったのである。

百聞は一見にしかずというが、やはり行って見ることである。夏のこととて、観光スポットのバンベルクは客で溢れ、ホテルはどこも満杯といった具合であった。ようやく小さな部屋ならあるというホテルに荷物を預け、駅前からまっすぐ行くと,ホフマン博物館という小さな記念館を見つけた。中の展示物を見ていたらホフマンはケーニヒスベルクの生まれとある。思わず「カントと同じだ」と呟いたら、横にいた人物がドイツ語で「そうですよ」と相槌を打つではないか。おそらく日本語は分からなくても「カント」という発音で、私の言わんとしたことを察したのであろう。

カント(1724~1804)とホフマン(1776~1822)は半世紀ほど離れて同じ街に生まれ、同じ大学に学んだのである。カントはこの東プロイセンの街を生涯離れなかったが、ホフマンはヨーロッパ各地で活躍した。あのドイツ騎士団がしきりと攻めて、プロイセン領にしてしまったケーニヒスベルクは今ロシア領となり、カリーニングラードと名前を変えている。カントはドイツ本国から離れたプロイセンで生涯を過ごし、ここで純粋理性批判、実践理性批判、判断力批判などの大著を書いたのだった。

ホフマンの家

ホフマンがバンベルクで指揮した楽団は、現在世界的に活躍している「バンベルク交響楽団」の前身ではなく、ここにあった劇場付属のオケであった。現在のバンベルク交響楽団は川の畔に立派な会場があり、小さな街に似合わぬ世界的名声を得ている。この街は2つの川の合流地点で風景が美しく、町の人達はここを「ドイツのヴェネツィア」と言って誇りにしている。話を戻すと現在のドイツ共和国成立の前身であるドイツ帝国の中心はプロイセン王国であった。かつて30年戦争で疲弊し、どん底まで陥ったこの地域はフリードリッヒ1世の時代に東プロイセン公国を領有するどころか、悪名高きポーランド分割に乗り出し、国土は広大なものになっていた。

しかし、第一次世界大戦、第二次世界大戦を通じて次第に領土を失い、カントの住んでいたケーニヒスベルクは、その結果としてロシアの飛び地のカリーニングラードになってしまったのである。カントの街、ホフマンの故郷ケーニヒスベルクが現在ロシア領であるとこの二人が聞けば、どんな心境に陥るであろうか。殊に第二次世界大戦後、東プロイセンから追われてドイツに逃げざるを得なかった難民たちの逃避行は悲惨を極めた。(旧満州からの引揚げを想起されよ)

さて、現在のドイツ共和国はこれらの避難民に旧所有地の5%の土地を与え、保護した。尚且つユダヤ人600万人の命を奪ったナチス第3帝国の埋め合わせの保証金を払い、旧強制収容所に若者を送り込み、大統領、首相はパレスチナに出向いて、犠牲者の記念館で頭をたれて先輩たちの旧悪の償いを毎年行なっている。そうしなければ周囲の諸国との関係を友好に保てないのだ。これが2度に渡る世界大戦の償いなのである。

こうした行為は戦後の痛烈なナチスに対する反省と地続きの周辺ヨーロッパ諸国に許しを求め、共存するためであって、ドイツというヨーロッパで最も経済的に先進的繁栄を誇るこの国は、こうしなければ、生き延びていけなかったのだ。これを「歴史の反省」と言わずして何と言うべきだろうか。第二次世界大戦を共に戦ったわが国は、海に囲まれ直接的圧迫感が少ないせいか、こうした歴史に学ぶことが甚だ少ないように思われる。そのつけが中国、韓国、北朝鮮などのわが国への痛烈な批判や反日教育、反日感情につながっているのであろう。

彼らが自国の都合上、反日的言動を行い、時に反日教育に走るにしても、その原因を作り、口実を与えたのは紛れもなく、「軍國主義日本」という過去の歴史であることは直視しなければならない。これほど謝っても、補償しても、何時までわが国を誹謗し続けるのかとうんざりしても、又ドイツとは事情が違うにしても、歴史とはそういうものであり、政治とはそういう非情なものだという認識を持たねばならないのだ。「歴史に学ぶ」ということはそういうことなのである。


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