2013/10/05

■”オーパン・パッサージュ”の謎


ウィーンのオペラ座前の地下にあるオーパンパサージュの改装が終わり、とてもきれいになった。歩道に赤いライン、天井に緑とのラインが、光って見やすく引かれている。 これはカールスプラッツで交差する地下鉄U1、U2 U4それぞれの路線のシンボルカラーで、それらの地下鉄へ至る通路であること示している。

この地下の通りを支える柱もオペラ側のやや楕円形の広場は褐色の大理石模様で上品に覆われている。昔ここを私達は「金魚鉢」と呼んでいたが、今でもそう呼ぶ人はいるかしら。中央のガラスで囲われているパンのチェーン店“アンカー”のお店が金魚鉢に見えるから、そう呼んでいたのだろう。

完成記念のパンフレットを読んでいたら、このガラスの壁は、この地下の通りの透明性のために意図的にされたものだという。従ってオーパン・パッサージュにある店は全て中が見えるようになっている。

私は1970年留学のためウィーンに来た時、このの中央につのエスカレーターがある、便利で近代的な通路があることに驚いたものだ。なぜなら日本的発想で考えると地上を横断して向こう側に渡るか、さもなくば歩道橋が架けられているものだという、おかしな思い込みが私にはあったからである。

東京で言えば数寄屋橋の交差点の地下にゆったりとした空間があり、そこにカフェやしゃれた店と地下通路があるようなものである。日本の歩道橋的発想に囚われていた私は、一体何時これが作られたのか、不思議であった。

当時私は、ショッテントーアに本部のあるウィーン大学に通っていたので、ショッテンパッサージュも驚きの箇所であった。あそこからフォルクスオーパーへ行く、ヴェーリンガー・シュトラーセに向かうと、次の市電の停留所のところからベルクガッセが坂道になって下って行き、その途切れた所にフロイトの記念館がある。その途中の10番地にウィーン・フィルのファゴット奏者のハンツルさんの家があり、私はそこに下宿していた。そういうこともあり、ショッテンパッサージュも毎日のように通うところだった。

完成記念のパンフレットによるとウィーン国立歌劇場再建に合わせて、1955年これは作られたのだそうである。それですっかり納得がいった。 195511日のウィーン国立歌劇場再建は「音楽の戴冠式」と呼ばれ、戦後のカ国占領からかオーストリアが解放された記念のシンボリックな出来事だったのである。

再開初日はベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」が上演され、入場出来なかった万人の聴衆はオペラ座を取り囲んで、スピーカーから流れる「フィデリオ」を聴いたのだった。この歌劇場再建の記念行事はつのオペラ、つのバレエ、ベートーヴェンの「交響曲第九番」で飾られ、1月続いた。

この年はウィーン国立歌劇場再開の他に、戦後の占領からの独立、国連加盟実現という実にを挙げて祝うべき記念の年だったのである。だから工事もゆったりとするが、一旦オーパンパッサージュ建設が決まると、何時もに似合わないスピードでこの地下通路を国立歌劇場再開の前日195511日に仕上げたというわけである従ってこの地下通路は何もただ便利のためだけでなくウィーン、オーストリアの建築と解放のモニュメントでもあるのである。

このオーパン・パッサージュは建築家アドルフ・ホーホ(191092)が設計した。この地下通路が手本となりベラーリア・パッサージュ(マリアヒルファー通り入り口)とバベンベルガー・パッサージュ(ブルクガルテンそばのリング)及びショッテンパッサージュが1961年に作られ、アルベルティーナパッサージュが64年に作られた。そして1978年にはオーパンパッサージュはカールスプラッツで交差する地下鉄の連絡口にもなったのである。こうしてオーパンパッサージュとショッテンパッサージュは何十万人の行き来する通路になったのだ。

今回のオーパンパッサージュ改築のお陰で、今まで何故かくも便利なものがあの当時存在したのか、と不思議でたまらなかった理由が、それらの地下通路の改装で、その謎が解けたのだった。 それらは私にはウィーンは弱者にやさしい街のシンボルにも思えていたのだ。

今回の改築でオーパン・パッサージュにはエスカレーターの他に2ヵ所にエレーターも設えられ、乳母車や老人、足の不自由な人も容易に上り下り出来るよう、更に便利になった。 歩道橋で手軽にます日本はその点でもまだまだ社会的発想に不備がある事を今回再認識したのだった。


logo
deco
sakai.at