2013/12/26

■日本とヨーロッパ ~②


歴史教育 ~その2

Volksgarten Wien

ウィーンに仕事の都合で住むことになって、子供たちを日本人学校に通わせた。ところが高校がない。そこでインターナショナルの高校に通わせた。
ある日学校の話題になって、歴史をどう教えているかという話題になった。驚いたことに歴史は現代から出発して、過去へと進んでいくのだという。これは日本とまるで反対ではないか。しかも時々生徒たちは2組に分かれて討論するのだという。おりしも旧ユーゴが紛争中だったので、客観的に討論するより、それぞれの出自をもっているから議論は白熱するのだという。

そんな調子では古代まで行きそうにないな、と思った。案の定、古代はおろか中世まで行くかどうかさえおぼつかない様子である。逆にわが国の歴史教育を考えると古代から始まって、現代まで到達することはほとんどない。逆さまのようで、事情は基本的には同じで、古代から下ってくるか、現代から遡っていくかの違いである。

では何が問題なのだろうか。我々は歴史というと人類の辿った道を知ることと考える。それを学ぶのが歴史だ。そう考えているのだ。ところがヨーロッパでは歴史から何を学ぶか、ということが重要なのである。有名なドイツのワイツゼッカー大統領は、かの有名な演説の中で「歴史に学ばないものは、現代に盲目になる。」といった。ここがポイントなのである。

我々は学ぶことは知識を吸収することだと考える。これも正しい。しかし、同時に知識の吸収だけでなく、その知識から何を学ぶか、という発想をしているであろうか。あるいは学ぶということは、何のために行うのか、と考えているだろうか。学ぶことで知識が増えることは結構なことである。しかし、その知識から何を引き出すのか、という視点を真剣に考えたことがあるだろうか。もし単に学ぶことが、単なる知識の集積に過ぎないとするならば、それはあまりに空しくはないだろうか。

我々は学ぶことに加えて、その知識について考えてみることが必要ではないか。
さらに可能ならそれらを体系づけられたら、さらに素晴らしいであろう。しかし、同時に学んだものの意味を考えることができたら、その知識は単なる知識に止まらず、生きていく上での重要な指針となるであろう。このことが大事なのである。

ことに歴史は現代がどこへ向かっていくのか、どうあるべきか考えるさせてくれる。そこに単なる知識に止めず、体系化し、その中から歴史の教えをくみ出す意味があるのである。それが二度の世界大戦を引き起こし、20世紀を悲惨な歴史にしてしてしまったドイツの大統領の苦悩の末の結論があった筈なのである。

話を最初に戻すと、わが国の軍国主義が引き起こしたアジアでの惨禍は、何によるものであるのか、歴史的にどういう意味をもっているのか、ということを考えないで、起こした事件の加害と被害のみについて言い合っている間は、根本的な問題の本質に迫れないであろう。第二次世界大戦後、ほぼ世界は他国を侵略し、自国の領土としたり、植民地にすることは「帝国主義」としてお互いに認識する方向に向かってきた。 これはかの悲惨な20世紀の惨禍の代償として学ぶべき、基本的認識といえよう。

世界全体を巻き込む大きな戦争は今後起き難くなったとはいえ、油断してはならない。更に21世紀の幕開けはテロという忌まわしい形の殺し合いで始まった。このような事態の根本的原因についても我々は考えねばなるまい。知識を沢山詰め込むことは結構なことである。しかし、それを生かさないこと、その意味を考えないことは、知識の飾り物を持つだけのペダンチックな物知りの域を出ないのだ。歴史教育の持つ意味は歴史から学ぶことである。そのために現代から学び始めることは非常に意味のあることだと思う。わが国でも何のために歴史を学ぶのか、深く再考する必要があるのではなかろうか。


2013/12/19

■日本とヨーロッパ ~②


歴史教育 ~その1

中国や韓国からしきりと日本の政治家の歴史認識がなっていないと批判されている。残念なことだ。ヨーロッパから見るとき日本の外交政策の下手なことは歯噛みしたいくらいに見える。それは恐らくドイツが戦後ヨーロッパの中で生き残るために必死で数々の手を打ってきた歴史を見ているからであろう。

ドイツはヒトラーをはじめとするナチスの過酷なユダヤ人絶滅政策のつけを払わされてきたから、その代価としてわが国では想像もつかない対策を講じてきた。いや講じざるを得なかったのだ。600万人ものユダヤ人を殺し、最終的にはユダヤ人をすべて抹殺するという政策を取ってきたのだから、ユダヤ人ならずとも強制収容所での大量のガス殺人とその思想には身の毛のよだつ思いをしてきたのであろう。

それらは想像もつかないほどの恐怖を世界中にばらまいてきた。そこで毎週必ずと言っていいほど1回はナチスの過去を批判し、告発するドキュメント、あるいは映画などがテレビの画面で流される。まるでドイツから発せられるそれらの映像はドイツという国と全く異なる国が行ってきた行為に見えるくらい厳しいものである。これが同じドイツという国のことであり、同じ民族のことかと思えるくらい冷徹に批判しているのである。

もしわが国で同様に軍国主義日本の過去の行為をドイツ同様に暴き立てたら、右翼は勿論のこと、一般の人々まで不愉快な思いをし、反発するのではなかろうか。冷静な歴史観で過去の軍国主義の行為を歴史の中で描写することすら右翼に自虐史観と罵られるのが日本の現状なのだから。

中国や韓国がわが国に求めているのはそうしたドイツが行っているナチス時代のドイツと現在のドイツの絶縁した行き方であろう。仮にそうしたとしても彼らは感情的にまだまだ100年単位でわが国に対する批判と嫌悪の情を拭い去ることはなかろうと思われる。

ではそういうことに対して頬かむりして居直ればいいのかというと、それは一層悪い関係を生むだけであろう。では卑屈にすみませんでした、と言えばいいのかというのでもあるまい。そういうたぐいの姿勢ではなく、率直に歴史を見るという姿勢だけが必要なのである。それに対して内外から色々と批判が出るであろう。しかしそれにめげてはいけないのだ。あの時代はそういういう認識で日本の軍部にわが国は引きずり回されたが、現在の日本はそういうことは決して起こさない民主主義の根付いた国に生まれ変わっているのです、と何回でも回答するよりほかに道はないのだ。 だが、それで問題は解決するのだろうか。そうではあるまい。そのための方法はいくつかあるはずだ。それを考えてみよう。(つづく)


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